昔物語などにぞ、かやうな事は聞ゆるを、いと有難きまで、あはれに淺からぬ御(おん)契りの程見えし御事を、つく〴〵と思ひ續くれば、年の積りけるほども、あはれに思ひ知られけり。
大納言の姫君二人ものし給ひし、まことに物語に書きつけたる有樣に劣るまじく、何事につけても、生ひ出で給ひしに、故大納言も母上も、うち續き薨(かく)れ給ひにしかば、いと心細き故郷に、詠め過し給ひしかど、はか〴〵しく、御(おん)乳母だつ人もなし。唯、常に候ふ侍從・辨などいふ若き人々のみ候へば、年に添へて人目稀にのみなりゆく故郷に、いと心細くておはせしに、右大將の御子の少將、知るよしありて、いと切に聞えわたりたまひしかど、かやうの筋は、かけても思しよらぬ事にて、御返り事など思しかけざりしに、少納言の君とて、いといたう色めきたる若き人、何の便りもなく、二所大殿籠りたる處へ、導き聞えてけり。もとより御志ありけることにて、姫君をかき抱きて、御帳の内へ入り給ひにけり。思しあきれたるさま、例の事なれば書かず。おしはかり給ふにしもすぎて、哀れに思さるれば、うち忍びつゝ、通ひ給ふを、父殿聞き給ひて、
「人のほどなど、口惜しかるべきにはあらねど、何かはいと心細き所に。」
など、許しなくのたまへば、思ふ程にもおはせず。女君も暫しこそ忍び過し給ひしか、さすがにさのみはいかゞおはせむ、さるべきに思し慰めて、やう〳〵うち靡き給へるさま、いとゞらうたくあはれなり。晝などおのづから寢過し給ふをり、見奉りたまふに、いと貴にらうたく、うち見るより心苦しきさまし給へり。何事もいと心憂く、人目稀なる御(おん)住居に、人の御心もいと頼み難く、「いつまで。」とのみ詠められ給ふに、四五日いぶせくて積りぬるを、「思ひし事かな。」と心ぼそきに、御袖只ならぬを、「我ながらいつ習ひけるぞ。」と思ひ知られ給ふ。
人ごゝろ秋のしるしの悲しきにかれ行く程のけしきなりけり
「などて、習ひに馴れにし心なるらむ。」などやうにうち歎かれて、やう〳〵更け行けば、唯うたゝねに、御帳の前にうち臥し給ひにけり。少將、内より出で給ふとておはして、うち叩き給ふに、人々おどろきて、中の君起し奉りて、我が御方へ渡し聞えなどするに、やがて入り給ひて、
「大將の君のあながちに誘ひ給ひつれば、長谷(はつせ)へ參りたりつる」
程の事など語り給ふに、ありつる御手習のあるを見給ひて、
常磐なる軒のしのぶを知らずして枯れゆく秋のけしきとや思ふ
と書き添へて見せ奉り給へば、いと恥しうて御顔引き入れ給へるさま、いとらうたく子めきたり。
かやうにて明し暮し給ふに、中の君の御乳母なりし人はうせにしが、女(むすめ)一人あるは、右大臣の少將の御(おん)乳母子の左衞門の尉といふが妻なり。類(たぐひ)なくおはするよしを語りけるを、かの左衞門の尉、少將に、
「しか〴〵なむおはする。」
と語り聞えければ、按察の大納言の御許には心留め給はず、あくがれありき給ふ君なれば、御文などねんごろに聞えたまひけれど、つゆあるべき事とも思したらぬを、姫君も聞き給ひて、
「思ひの外にあは〳〵しき身の有樣をだに、心憂く思ふ事にて侍れば、實(まこと)に強き縁(よすが)おはする人を。」
など宣ふも哀れなり。さるは幾程のこのかみにもおはせず、姫君は、二十に一つなどや餘りたまふらむ。中の君は、今三つばかりや劣り給ふらむ。いとたのもしげなき御さまどもなり。左衞門、あながちに責めければ、太秦に籠り給へる折を、いとよく告げ聞えてければ、例のつゝましき御さまなれば、ゆゑもなく入り給ひにけり。姉君も聞き給ひて、
「『我が身こそあらめ、いかでこの君をだに、人々しうもてなし聞えむ。』と思へるを、さま〴〵にさすらふも、世の人聞き思ふらむ事も心憂く、亡きかげにもいかに見給ふらむ。」
と、はづかしう契り口惜しう思さるれど、今はいふかひなき事なれば、いかゞはせむにて見給ふ。これもいとおろかならず思さるれど、按察の大納言、聞き給はむ所をぞ、父殿いと急に諫め給へば、今一方よりはいと待遠に見え給ふ。この右大臣殿の少將は、右大臣の北の方の御兄(おんせうと)にものし給へば、少將たちもいと親しくおはする。互にこのしのび人も知りたまへり。右大臣の少將をば、權少將とぞ聞ゆる。按察の大納言の御許に、此の三年ばかりおはしたりしかども、心留め給はず、世と共にあくがれ給ふ。この忍び給ふ御事をも、「大將殿におはする。」など思はせ給へり。いづれもいとをかしき御振舞も、あながち制し聞え給へば、いといたく忍びて、大將殿へ迎へ給ふをりもあるを、いとゞかる〴〵しうつゝましき心地のし給へど、
「今は宣はむ事を違へむもあいなき事なり。あるまじき所へおはするにてもなし。」
など、さかしだち進め奉る人々多かれば、我にもあらず時々おはする折もありけり。權少將は、大將殿のうへの御風の氣おはするに託(ことつ)けて、例の泊り給へるに、いと物騒しく、客人(まらうど)など多くおはする程なれば、いと忍びて御車奉り給ふに、左衞門の尉も候はねば、時々もかやうの事に、いとつきづきしき侍(さぶらひ)もさゝめきて、御車に奉り給ふ。「大將殿のうへ、例ならず物し給ふ程にて、いたく紛るれば、御文もなき」由宣ふ。夜いたく更けて、彼處に詣でて、
「少將殿より。」
とて、
「忍びて聞えむ。」
といふに、人々皆寢にけるに、姫君の御方の侍從の君に、「少將殿より。」とて、御車奉り給へるよしを言ひければ、ねぼけにける心地に、
「いづれぞ。」
と尋ぬる事もなし。「例も參る事なれば。」と思ひて、「かう〳〵。」と君に聞ゆれば、
「文などもなし。『風にや。例ならぬ。』など言へ。」
と宣へば、
「御使此方(こち)。」
と言はせて、妻戸を開けたれば、寄り來るに、
「御文なども侍らぬは、いかなる事にか。」
又、
「『御(おん)風の氣(け)の物し給ふ。』とて。」
といふに、
「『大將殿のうへ、御風の氣のむづかしくおはして、人騷しく侍る程なれば、此の由を申せ。前々(さき〴〵)の御使に參り侍る人も候はぬ程にて。』など、返す〴〵仰せられつるに、空しく歸り參りては、必ず責(さいな)まれ侍りなむず。」
といへば、參りて、しか〴〵と聞えて進め奉れど、例の人のまゝなる御心にて、薄色のなよゝかなるが、いと染(し)み深う懷しき程なるを、いとゞ心苦しげにしませて乘り給ひぬ。侍從ぞまゐりぬる。御車寄せて下し奉り給ふを、いかであらぬ人とは思さむ。限りなく懷しう、なめやかなる御けはひは、いとよく通ひ給へれば、少しも思しもわかぬ程に、やう〳〵あらぬと見なし給ひぬる心惑(こゝろまどひ)ぞ、現とは覺えぬや。かの昔夢見し初めよりも、なか〳〵恐ろしう淺ましきに、やがて引き被き給ひぬ。侍從こそは、「いかにと侍る事にか。」と、
「これはあらぬ事になむ。御車寄せ侍らむ。」
と、泣く〳〵いふを、さばかり色なる御心には許し給ひてむや。寄りて引き放ち聞ゆべきならねば、泣く〳〵几帳の後にゐたり。男君はたゞにはあらず、いかに思さるゝ事もやありけむ、いと嬉しきに、いたう泣き沈みたまふ氣色も道理ながら、いと馴れ顔に、豫(かね)てしも思ひあへたらむ事めきて、樣々聞え給ふ事もあるべし。隔てなくさへなりぬるを、女は死ぬばかりぞ、心憂く思したる。かゝる事は、例の哀れも淺からぬにや、類なくぞ思さるゝ。
あさましき事は、今の一人の少將の君も、母上の御風よろしきさまに見え給へば、「彼所へ。」と思せど、「夜などきと尋ね給ふ事もあらむに、折節なからむも。」と思して、御車奉り給ふ。これはさき〴〵も、御文なき折もあれば、何とも宣はず。例のきよすゑ參りて、
「御車。」
といふを、申し傳ふる人も、一所はおはしぬれば、疑ひなく思ひて、
「かく。」
と申すに、これも「いと俄に。」とは思せど、今少し若くおはするにや、何とも思ひ至りもなくて、人々御衣(おんぞ)など著せ換へ奉りつれば、我にもあらでおはしぬ。御(おん)車寄に、少將おはして物など宣ふに、あらぬ御けはひなれば、辨の君、
「いと淺ましくなむ侍る。」
と申すに、君も心敏くこゝろみ給ひて、日頃も、いとにほひやかに、見まほしき御さまの、おのづから聞き給ふ折もありければ、「いかで『思ふ。』とだにも。」など、人知れず思ひ渡り給ひける事なれば、
「何か、『あらず。』とて、疎く思すべき。」
とて、かき抱きておろし給ふに、いかゞはすべき。さりとて我さへ捨て奉るべきならねば、辨の君も下りぬ。女君唯わなゝかれて、動きだにし給はず。辨いと近うつととらへたれど、
「何とか思さむ。今は唯然(さ)るべきに思しなせ。世に人の御爲あしき心は侍らじ。」
とて、几帳押し隔て給へれば、せむ方なくて泣き居たり。これもいとあはれ限りなくぞ覺え給ひける。
おの〳〵歸り給ふ。曉に御歌どもあれど、例の漏しにけり。男も女も、いづかたも、唯同じう、御心の中に、あいなう胸ふたがりてぞ思さるゝ。さりとて、
「又も。」
と疎にはあらぬ御思ひと、もの珍しきにも劣らず、何方も限りなかりけるこそ、なか〳〵にうきしも苦しかりけれ。「權少將殿より。」とて御文あり。起きもあがられ給はねど、人目あやしさに、辨の君ひろげて見せ奉る。
思はずに我が手になるゝ梓弓ふかき契りのひけばなりけり
あはれと見いれ給ふべきにもあらねば、人め怪しくて、さりげなくてつゝみていだしつ。今一方にも、
「少將殿より。」
とてあれば、侍從の君胸潰れて見せ奉れば、
淺からぬ契りなればぞ涙川おなじ流れに袖濡らすらむ
とあるを、何方にもおろかに仰せられむとにや。返す〴〵唯同じさまなる御心のうちとのみぞ、心苦しう、とぞ本にも侍る。
劣り優り差別(けぢめ)なく、さま〴〵深かりける御志ども、はてゆかしうこそ侍れ。猶とり〴〵なりける中にも、珍しきは猶立ち優りやありけむに、見馴れ給ふにも、年月もあはれなるかたは、いかゞ劣るべき、と本にも、「本のまゝ。」と見ゆ。