堤中納言物語 - 05. 逢坂越えぬ權中納言

 五月待ちつけたる花橘の香も、昔の人戀しう、秋の夕に劣らぬ風にうち匂ひたるは、をかしうもあはれにも思ひ知らるゝを、山郭公も里馴れて語らふに、三日月の影ほのかなるは、折から忍び難くて、例の宮わたりに訪はまほしう思さるれど、「甲斐あらじ。」とうち歎かれて、或るわたりの、猶情あまりなるまでと思せど、そなたは物憂きなるべし。「如何にせむ。」と眺め給ふほどに、
 「内裏に御遊び始まるを、只今參らせ給へ。」
とて、藏人の少將參り給へり。
 「待たせ給ふを。」
などそゝのかし聞ゆれば、物憂ながら、
 「車さし寄せよ。」
など宣ふを、少將、
 「いみじうふさはぬ御氣色の候ふは、たのめさせ給へる方の、恨み申すべきにや。」
と聞ゆれば、
 「斯許りあやしき身を、怨しきまで思ふ人は、誰か。」
など言ひかはして參り給ひぬ。琴・笛など取り散らして、調べまうけて待たせ給ふなりけり。ほどなき月も雲隱れけるを、星の光に遊ばせ給ふ。この方のつきなき殿上人などは、眠たげにうち欠伸つつ、すさまじげなるぞわりなき。
 御遊び果てゝ、中納言、中宮の御方にさし覗き給ひつれば、若き人々心地よげにうち笑ひつゝ、
 「いみじき方人參らせ給へり。あれをこそ。」
など言へば、
 「何事せさせ給ふぞ。」
と宣へば、
 「明後日(あさて)根合せし侍るを、何方には寄るらむと思し召す。」
と聞ゆれば、
 「あやめも知らぬ身なれども、引きとり給はむ方にこそは。」
と宣へば、
 「あやめも知らせ給はざなれば、右には不用にこそは。さらば此方(こなた)に。」
とて、小宰相の君、押し取り聞えさせつれば、
 「御心も寄るにや。斯う仰せらるゝ折も侍りけるは。」
とて、憎からずうち笑ひて出で給ひぬるを、
 「例のつれなき御氣色こそ侘しけれ。かゝるをりは、うちも亂れ給へかし。」
とぞ見ゆる。右の人、
 「さらば此方には、三位の中將を寄せ奉らむ。」
と言ひて、殿上に呼びにやり聞えて、
 「かかる事の侍るを、『此方に寄らせ給へ。』と頼み聞ゆる。」
と聞えさすれば、
 「ことにも侍らぬ心の思はむ限りこそは。」
と、頼もしう宣ふを、
 「さればこそ、この御心は底ひ知らぬこひぢにもおりたち給ひなむ。」
と、互(かたみ)に羨むも、宮はをかしう聞かせ給ふ。
 中納言、さこそ心にいらぬ氣色なりしかど、その日になりて、えも言はぬ根ども引き具して參り給へり。小宰相の局に先づおはして、
 「心幼く取り寄せ給ひしが心苦しさに、若々しき心地すれど、淺香の沼を尋ねて侍り。さりとも、まけ給はじ。」
とあるぞ頼もしき。何時の間に思ひ寄りける事にか、言ひ過ぐすべくもあらず。
 「右の少將おはしたむなり。何處(いづこ)や。いたう暮れぬ程ぞよからむ。中納言はまだ參らせ給はぬにや。」
と、まだきに挑ましげなるを、少將の君、
 「あな、をこがまし。御前(おまへ)こそ、御聲のみ高くておぞかめれ。彼は東雲より入り居て、整へさせ給ふめり。」
などいふ程にぞ、かたちより始めて同じ人とも見えず、恥しげにて、
 「などとよ。この翁、ないたう挑み給ひそ。身も苦し。」
とて、歩み出で給へり。御年の程ぞ、二十に一二ばかり餘り給ふらむ。
 「さらば疾くし給へかし。見侍らむ。」
とて、人々參り集ひたり。方人の殿上人、心々に取りいづる根の有樣、何れも劣らず見ゆる中にも、左のは、猶なまめかしきけさへ添ひてぞ、中納言のし出で給へる、合せもて行く程に、「持(ぢ)にやならむ。」と見ゆるを、左の終てに取り出でられたる根ども、更に心及ぶべうもあらず。三位中將、言はむ方なく守り居給へり。
 「左勝ちぬるなめり。」
と、方人の氣色、したり顔に心地よげなり。
 根合せ果てて、歌のをりになりぬ。左の講師(かうじ)左中辨、右のは四位の少將。讀みあぐるほど、小宰相の君など、「いかに心つくすらむ。」と見えたり。
 「四位少將、いかに。臆すや。」
と、あいなう、中納言後見給ふほど、妬げなり。
 左
 君が代の長きためしにあやめ草千尋に餘る根をぞひきつる
 右
 なべてのと誰か見るべき菖蒲草(あやめぐさ)淺香の沼の根にこそありけれ
と宣へば、少將、
 「更に劣らじものを。」
とて、
 何れともいかゞわくべき菖蒲草同じ淀野に生ふる根なれば
と宣ふ程に、上聞かせ給ひて、ゆかしう思し召さるれば、忍びやかにて渡らせ給へり。宮の御覽ずる所に寄らせ給ひて、
 「をかしき事の侍りけるを、などか告げさせ給はざりける。中納言・三位など方別るゝは、戲れにはあらざりける事にこそは。」
と宣はすれば、
 「心に寄る方のあるにや。別くとはなけれど、さすがに挑ましげにぞ。」
など聞えさせたまふ。
 「小宰相・中將が氣色こそいみじかめれ。何れ勝ち、負けたる。さりとも中納言は、負けじ。」
など仰せらるゝや仄聞ゆらむ、少將、御簾の中怨めしげに見遣りたる尻目も、らうじく、愛敬づき、人より殊に見ゆれど、なまめかしう恥しげなるは、猶類無げなり。
 「無下にかくて止みなむも、名殘つれなるべきを、琵琶の音こそ戀しきほどになりにたれ。」
と、中納言、辨をそゝのかし給へば、
 「その事となき暇なさに、皆忘れにて侍るものを。」
といへど、遁るべうもあらず宣へば、盤渉調(ばんしきてう)に掻い調べて、はやりかに掻き鳴らしたるを、中納言堪えず、をかしうや思さるらむ、和琴とり寄せて彈き合せ給へり。この世の事とは聞えず。三位横笛、四位少將拍子取りて、藏人の少將「伊勢の海」うたひ給ふ。聲まぎれず、うつくし。上は樣々面白く聞かせ給ふ中にも、中納言は、かううち解け、心に入れて彈き給へる折は少きを、珍しう思し召す。
 「明日は御物忌なれば、夜更けぬさきに。」
とて、歸らせ給ふとて、左の根の中に殊に長きを、
 「例證(ためし)にも。」
とて持たせ給へり。中納言罷で給ふとて、
 「橋のもとの薔薇(さうび)。」
とうち誦じ給へるを、若き人々は、飽かず慕ひぬべく賞で聞ゆ。かの宮わたりにも、
 「覺束なきほどになりにけるを。」
と、訪(おとな)はまほしう思せど、「いたう更けぬらむ。」とてうち臥し給へれど、まどろまれず。
 「人はものをや。
とぞ言はれ給ひける。
 又の日、菖蒲(あやめ)も引き過ぎぬれど、名殘にや、菖蒲(さうぶ)の紙あまた引き重ねて、
 昨日こそひきわびにしかあやめ草深きこひぢにおり立ちし間に
と聞え給ひつれど、例のかひなきを思し歎くほどに、はかなく五月も過ぎぬ。
 地(つち)さへ割れて照る日にも、袖ほすよなく思しくづほるゝ。
 十日、宵の月隈なきに、宮にいと忍びておはしたり。宰相の君に消息し給ひつれば、
 「恥しげなる御有樣に、いかで聞えさせむ。」
と言へど、
 「さりとて、物のほど知らぬやうにや。」
とて、妻戸押し開け對面したり。うち匂ひ給へるに、餘所ながらうつる心地ぞする。なまめかしう、心深げに聞え續け給ふ事どもは、
 「奧の夷も思ひ知りぬべし。例のかひなくとも、『斯くと聞きつ。』ばかりの御言の葉をだに。」
と責め給へば、
 「いさや。」
と打ち歎きて入るに、やをら續きて入りぬ。臥し給へる所にさし寄りて、
 「時々は端つ方にても涼ませ給へかし。餘り埋(うづも)れ居たるも。」
とて、
 「例のわりなき事こそ、えも言ひ知らぬ御氣色、常よりもいとほしうこそ見奉り侍れ。唯一言聞え知らせまほしくてなむ。『野にも山にも。』と喞たせ給ふこそ、わりなく侍れ。」
と聞ゆれば、
 「如何なるにか、心地の例ならず覺ゆる。」
と宣ふ。
 「いかゞ。」
と聞ゆれば、
 「『例は宮に教ふる。』とて、動き給ふべうもあらねば、斯くなむ聞えむ。」
とて立ちぬるを、聲をしるべにて尋ねおはしたり。思し惑ひたる樣、心苦しければ、
 「身の程知らず、なめげには、よも御覽ぜられじ。唯一言を。」
と言ひもやらず、涙のこぼるゝさまぞ、樣よき人も無かりける。宰相の君出でて見れど、人もなし。「返り事も聞えてこそ出で給はめ。人に物宣ふなめり。」と思ひて、暫し待ち聞ゆるに、おはせずなりぬれば、「『なかかひなき事は聞かじ。』など思して、出で給ひにけるなめり。いとほしかりつる御氣色を、我ならば。」とや思ふらむ、あぢきなく打ち詠めて、うちをば思ひ寄らぬぞ心おくれたりける。
 宮はさすがに理(わり)なく見え給ふものから、心強くて、明け行く氣色を、中納言も、えぞ荒立ち給はざりける。「『心のほども思し知れ。』とにや。わびし。」とおぼしたるを、立ち出で給ふべき心地はせねど、「見る人あらば、事あり顔にこそは。」と、人の御ためいとほしくて、
 「今より後だに思し知らず顔ならば、心憂くなむ。猶『辛からむ。』とや思しめす。人は斯くしも思ひ侍らじ。」
とて、
 怨むべきかたこそなけれ夏衣うすき隔てのつれなきやなぞ