堤中納言物語 - 03. 蟲愛づる姫君

 蝶愛づる姫君の住み給ふ傍に、按察使の大納言の御(おん)女、心にくくなべてならぬさまに、親たち侍(かしづ)き給ふ事限りなし。
 この姫君の宣ふ事、
 「人々の、花や蝶やと賞づるこそ、はかなうあやしけれ。人は實あり。本地尋ねたるこそ、心ばへをかしけれ。」
とて、萬の蟲の恐しげなるを取りあつめて、「これが成らむさまを見む。」とて、さまなる籠・箱どもに入れさせ給ふ。中にも、
 「鳥毛蟲(かはむし)の心深き樣したるこそ心憎けれ。」
とて、明暮は耳挾みをして、掌(て)のうらにそへ伏せてまぼり給ふ。若き人々は怖ぢ惑ひければ、男(を)の童の物怖ぢせず、いふかひなきを召し寄せて、箱の蟲ども取らせ、名を問ひ聞き、今新しきには名をつけて興(けう)じ給ふ。
 「人はすべて粧(つくろ)ふ所あるは惡(わろ)し。」
とて、眉更に拔き給はず。齒黑(はぐろめ)更に「うるさし。穢し。」とてつけ給はず。いと白らかに笑みつゝ、この蟲どもを朝夕(あしたゆふべ)に愛し給ふ。
 人々怖ぢ侘びて逃ぐれば、その御方は、いと怪しくなむ詈りける。かく怖づる人をば、
 「けしからず放俗(はうぞく)なり。」
とて、いと眉黑(まゆくろ)にてなむ睨み給ひけるに、いとゞ心地なむ惑ひける。
 親たちは、「いと怪しく樣異におはするこそ。」と思しけれど、「思し取りたる事ぞあらむや。怪しき事ぞ。」と思ひて、「聞ゆる事は、深くさはらへ給へば、いとぞかしこきや。」と、これをもいと恥しと思したり。
 「さはありとも、音聞きあやしや。人はみめをかしき事をこそ好むなれ、『むくつけげなる鳥毛蟲を興ずなる。』と、世の人の聞かむも、いと怪し。」
と聞え給へば、
 「苦しからず。萬の事どもを尋ねて、末を見ればこそ事はゆゑあれ。いとをさなき事なり。鳥毛蟲の蝶とはなるなり。」
 そのさまのなり出づるを、取り出でて見せ給へり。
 「衣とて人の著るもの、蠶(かひこ)のまだ羽つかぬにしいだし、蝶になりぬれば、いとも袖にて、あだになりぬるをや。」
と宣ふに、言ひ返すべうもあらず、あさまし。
 さすがに、親たちにも差向ひ給はず、
 「鬼と女とは、人に見えぬぞよき。」
と案じ給へり。母屋の簾を少し捲き上げて、几帳隔てて、かく賢しく言ひ出し給ふなりけり。
 これを若き人々聞きて、
 「いみじくさかし給へど、心地こそ惑へ。この御(おん)遊び物よ。いかなる人、蝶めづる姫君につかまつらむ。」
とて、兵衞といふ人、
 いかで我とかむかたないてしかなる鳥毛蟲ながら見るわざはせじ
といへば、小大輔といふ人笑ひて、
 うらやまし花や蝶やといふめれど鳥毛蟲くさき世をも見るかな
などいひて笑へば、
 「からしや。眉はしも、鳥毛蟲だちためり。さてはくさきこそ、皮のむけたるにやあらむ。」とて、左近といふ人、
 「冬くれば衣たのもし寒くともかはむしおほく見ゆるあたりは
衣(きぬ)など著ずともあらむかし。」など言ひあへるを、とがしき女聞きて、
 「若人達(わかうどたち)は何事言ひおはさうずるぞ。蝶愛で給ふなる人、專(もは)らめでたうも覺えず、けしからずこそ覺ゆれ。さて又鳥毛蟲竝べ、蝶といふ人ありなむやは。唯それが蛻(もぬ)くるぞかし。そのほどを尋ねてし給ふぞかし。それこそ心深けれ。蝶は捕ふれば、手にきりつきて、いとむつかしきものぞかし。又蝶は捕ふれば、瘧病(わらはやみ)せさすなり。あなゆゝしともゆゝし。」
といふに、いとゞ憎さ増りて言ひあへり。
 この蟲ども捕ふる童(わらはべ)には、をかしきもの、彼がほしがる物を賜へば、樣々に恐しげなる蟲どもを取り集めて奉る。
 「鳥毛蟲は毛などをかしげなれど、覺えねばさうし。」
とて、螳螂(いぼじり)・蝸牛(かたつぶり)などを取り集めて、歌ひ詈らせて聞かせ給ひて、我も聲をうちあげて、
 「かたつぶりの角の爭ふやなぞ。」
といふことを誦じ給ふ。童の名は「例のやうなるは侘し。」とて、蟲の名をなむ附け給ひたりける。螻蛄男(けらを)・ひきまろ・いなかだち・蚱蜢(いなご)麿・雨彦(あまひこ)など名をつけて召使ひ給ひける。
 かゝる事世に聞えて、いとうたてある事をいふ中に、ある上達部(かんだちめ)の御壻、うち逸りて物怖ぢせず、愛敬づきたることあり。この姫君のことを聞きて、
 「さりとも、これには怖ぢなむ。」
とて、帶の端のいとをかしげなるに、蛇(くちなは)の形(かた)をいみじく似せて、動くべきさまなどしつけて、鱗(いろこ)だちたる懸袋に入れて、結び附けたる文を見れば、
 はふも君があたりにしたがはむ長き心の限りなき身は
とあるを、何心なく御前に持て參りて、
 「袋などあくるだに怪しくおもたきかな。」
とてひき開けたれば、蛇首を擡げたり。人々心惑はして詈るに、君はいと長閑にて、
 「なもあみだぶつ、なもあみだぶつ。」
とて、
 「生前(さうぜん)の親ならむ。な騷ぎそ。」
とうちわなゝかし、かほゝかやうに、
 「生めかしきうちしも、結縁に思はむぞ、怪しき心なるや。」
とうち呟きて、近く引き寄せ給ふも、さすがに恐しく覺え給ひければ、立處居處蝶の如く、せみごゑに宣ふ聲の、いみじうをかしければ、人々逃げ騷ぎて笑ひゐれば、
 「しか。」
と聞ゆ。
 「いと淺ましく、むくつけき事をも聞くわざかな。さる物のあるを見る、皆立ちぬらむ事ぞ怪しきや。」
とて、大臣太刀を提(ひきさ)げもて走りたり。よく見給へば、いみじう能く似せて作り給へりければ、手に取り持ちて、
 「いみじう物よくしける人かな。」
と、
 「かしこがり、譽め給ふと聞きてしたるなめり。返り事をして、早く遣り給ひてよ。」
とて、渡り給ひぬ。人々、作りたると聞きて、
 「けしからぬわざしける人かな。」
と言ひ憎み、
 「返り事せずば、覺束ながりなむ。」
とて、いとこはくすくよかなる紙に書き給ふ。假字(かな)はまだ書き給はざりければ、片假字(かたかんな)に、
 「契りあらばよき極樂に行き逢はむまつはれにくし蟲の姿は
福地の園に。」とある。
 右馬の助見給ひて、
 「いと珍かに樣異なる文かな。」
と思ひて、
 「いかで見てしがな。」
と思ひて、中將と言ひ合せて、怪しき女どもの姿を作りて、按察使の大納言の出で給へるほどにおはして、姫君の住み給ふ方の、北面の立蔀のもとにて見給へば、男の童の、異なることなき草木どもに佇み歩きて、さていふやうは、
 「この木にすべていくらも歩くは、いとをかしきものかな。これ御覽ぜよ。」
とて、簾を引き上げて、
 「いと面白き鳥毛蟲こそ候へ。」
といへば、さかしき聲にて、
 「いと興あることかな。此方(こち)持て來。」
と宣へば、
 「取り別つべくも侍らず。唯こゝもとにて御覽ぜよ。」
といへば、荒らかに蹈みて出づ。簾を押しはりて、枝を見はり給ふを見れば、頭へ衣著あげて、髪もさがりば清げにはあれど、梳り繕はねばにや、しぶげに見ゆるを、眉いと黔く花々とあざやかに、涼しげに見えたり。口つきも愛敬づきて清げなれど、齒黑(はぐろめ)つけねばいとよづかず。化粧したらば清げにはありぬべし。「心憂くもあるかな。」と覺ゆ。かくまでやつしたれど、見にくくなどはあらで、いと樣異に、鮮かに氣高く、花やかなるさまぞあたらしき。練色の綾の袿(うちき)一襲、はたおりめの小袿一襲、白き袴を好みて著給へり。この蟲をいとよく見むと思ひて、さし出でて、
 「あな愛でたや。日にあぶらるゝが苦しければ、此方(こなた)ざまに來るなりけり。これを一も墜さで追ひおこせよ、童(わらはべ)。」
と宣へば、突き落せば、はらと落つ。白き扇の墨ぐろに眞字(まな)の手習したるをさし出でて、
 「これに拾ひ入れよ。」
と宣へば、童取り出づる。みな君達も、
 「あさましう、さいなんあるわたりに、こよなくもあるかな。」
と思ひて、この人を思ひて、「いみじ。」と君は見給ふ。
 童のたてる、怪しと見て、
 「かの立蔀のもとに添ひて、清げなる男の、さすがに姿つき怪しげなるこそ、覗き立てれ。」
と言へば、此の大輔(たいふ)の君といふ、
 「あな、いみじ。御前には例の蟲興じ給ふとて、顯はにやおはすらむ。告げ奉らむ。」
とて、參れば、例の簾の外(と)におはして、鳥毛蟲のゝしりて拂ひ墜させ給ふ。いと恐ろしければ、近くは寄らで、
 「入らせ給へ。顯はなり。」
と聞えさすれば、これを制せむと思ひて、ふと覺えて、
 「それ、さばれ、もの恥しからず。」
と宣へば、
 「あな心憂。虚言と思しめすか。その立蔀のつらに、いと恥しげなる人侍るなるを。奧にて御覽ぜよ。」
と言へば、
 「螻蛄男、彼處(かしこ)に出で見て來。」
と宣へば、立ち走りて往(い)きて、
 「實に侍るなりけり。」
と申せば、立ち走り往きて、鳥毛蟲は袖に拾ひ入れて、走り入り給ひぬ。丈だちよき程に、髪も袿ばかりにていと多かり。すそもそがねば、ふさやかならねど、とゝのほりてなか美しげなり。
 「かくまであらぬも、世の常の人ざま・けはひもてつけぬるは、口惜しうやはある。實に疎ましかべきさまなれど、いと清げに、氣高う、煩はしきけぞ異なるべき。あな口惜し。などかいとむくつけき心ならむ。かばかりなるさまを。」
と思す。右馬の助、
 「唯歸らむは、いとさうし。『見けり。』とだに知らせむ。」
とて、疊紙に草の汁して、
 かはむしの毛深きさまを見つるよりとりもちてのみ守るべきかな
とて、扇して打ち叩き給へば、童出で來たり。
 「これ奉れ。」
とて、取らすれば、大輔の君といふ人、
 「この彼所に立ち給へる人の、『御前に奉れ。』とて。」
と言へば、取りて、
 「あな、いみじ。右馬の助の所爲(しわざ)にこそあめれ。心憂げなる蟲をしも、興じ給へる御顔を見給ひつらむよ。」
とて、さま聞ゆれば、答(いら)へ給ふことは、
 「思ひ解けば、物なむ恥しからぬ。人は、夢幻のやうなる世に、誰かとまりて惡しき事をも見、善きをも思ふべき。」
と宣へば、言ふかひなくて、若き人々、各自(おのがじし)心憂がりあへり。この人々、
 「返り事やはある。」
とて、暫し立ち給へれど、童ども皆呼び入れて、
 「心憂し。」
といひあへり。ある人々は、心づきたるもあるべし、「さすがにいとほし。」とて、
 人に似ぬ心のうちは鳥毛蟲の名を問ひてこそ言はまほしけれ
右馬の助、
 鳥毛蟲にまぎるゝ眉の毛の末にあたるばかりの人は無きかな
と言ひて、笑ひて歸りぬめり。二の卷にあるべし。