下わたりに、品賤しからぬ人の子ども、叶はぬ人をにくからず思ひて、年ごろ經るほどに、親しき人の許へ往き通ひける程に、女を思ひかけて、みそかに通ひありきけり。珍しければにや、初めの人よりは志深く覺えて、人目もつゝまず通ひければ、親聞きつけて、
「年ごろの人をもち給へれども、いかゞせむ。」
とて許して住ます。もとの人聞きつけて、
「今はかぎりなめり。通はせてなどもよもあらせじ。」
と思ひわたる。「往くべきところもがな。つらくなり果てぬ前(さき)に離れなむ。」と思ふ。されど、さるべき所もなし。
今の人の親などは、おし立ちて言ふやう、
「妻(め)などもなき人の切に言ひしに婚(あは)すべきものを、かく本意にもあらでおはしそめてしこそ口惜しけれど、いふかひなければ、かくてあらせ奉るを、世の人々は、『「妻居(す)ゑ給へる人を思ふ。」と、さいふも、家に居ゑたる人こそ、やごとなく思ふにはあらめ。』などいふもやすからず。實(げ)にさる事に侍る。」
と言ひければ、男、
「人數(ひとかず)にこそはべらねど、志ばかりは勝る人侍らじと思ふ。彼處には渡し奉らぬを、おろかに思さば、只今も渡し奉らむ、いと異樣になむ侍る。」
といへば、親、
「さらにあらせたまへ。」
と押し立ちていへば、男、「あはれ、かれも何方(いづち)遣らまし。」と覺えて、心の中悲しけれども、「『今のがやごとなければ、かく。』など言ひて、氣色も見む。」と思ひて、もとの人のがりいぬ。見れば、あてにこゝしき人の、日ごろ物を思ひければ、少し面瘠せていとあはれげなり。うち恥ぢしらひて、例のやうに物言はで、しめりたるを、いと心苦しう思へど、然(さ)言ひつれば、言ふやう、
「志ばかりは變らねど、親にも知らせで、斯樣に罷りそめてしかば、いとほしさに通ひはべるを、つらしと思すらむかしと思へば、何とせしわざぞと、今なむ悔しければ、今もえかき絶ゆまじうなむ。彼處につちをらすべきを、『此處に渡せ。』となむいふを、いかゞ思す。外へや往なむと思す。何かは苦しからむ。かくながら端つ方におはせよかし。忍びて忽ちに何方(いづち)かはおはせむ。」
など言へば、女、「此處に迎へむとていふなめり。これは親などあれば、此處に住まずともありなむかし。年ごろ行く方もなしとみる〳〵、斯く言ふよ。」と、「心憂し。」と思へど、つれなく答ふ。
「さるべき事にこそ。はや渡し給へ。何方も〳〵往なむ。今までかくてつれなく、憂き世を知らぬ氣色こそ。」
といふ。いとほしきを、男、
「など斯う宣ふらむや。今にてはあらず、唯暫しの事なり。歸りなば、又迎へ奉らむ。」
と、言ひ置きて出でぬる後、女、つかふ者とさし向ひて泣き暮す。
「心憂きものは世なりけり。いかにせまし。おり立ちて來むには、いとかすかにて出で見えむもいと見苦し。いみじげに怪しうこそはあらめ。かの大原のいまこが家へ往かむ。かれより外に知りたる人なし。」
かくいふは、もとつかふ人なるべし。
「それは片時(かたとき)おはしますべくも侍らざりしかども、さるべき所の出で來むまでは、まづおはせ。」
など語らひて、家の内清げに掃かせなどする。心地もいと悲しければ、泣く〳〵恥しげなる物燒かせなどする。今の人明日なむ渡さむとすれば、この男に知らすべくもあらず。「車なども誰にか借らむ。『送れ。』とこそは言はめ。」と思ふも、をこがましけれど、言ひ遣る。
「『今宵なむ物へ渡らむ。』と思ふに、車暫し。」
となむ言ひやりたれば、男、「あはれ、何方(いづち)にとか思ふらむ。往かむさまをだに見む。」と思ひて、今此處へ忍びて來ぬ。女待つとて端に居たり。月の明きに、泣く事限りなし。
我が身かくかけ離れむと思ひきや月だに宿をすみ果つる世に
と言ひて泣く程に、來れば、さりげなくて、うちそばむきて居たり。
「車は牛たがひて、馬なむ侍る。」
といへば、
「唯近き所なれば、車は所狹し。さらばその馬にても、夜の更けぬ前(さき)に。」
と急げば、「いとあはれ。」と思へど、彼處には皆「朝に。」とおもひためれば、遁るべうもなければ、心苦しう思ひ〳〵、馬牽き出させて、簀子に寄せたれば、乘らむとて立ち出でたるを見れば、月のいと明きかげに、有樣いとさゝやかにて、髪はつやゝかにて、いともいと美しげにて、丈ばかりなり。男、手づから乘せて、此處彼處ひきつくらふに、いみじく心憂けれど、念じて物も言はず。馬に乘りたる姿・頭つき、いみじくをかしげなるを、「哀れ。」と思ひて、
「送りに我も參らむ。」
といふ。
「唯こゝもとなる所なれば、敢へなむ。馬は只今返し奉らむ。その程は此處におはせ。見苦しき所なれば、人に見すべき所にも侍らず。」
といへば、「さもあらむ。」と思ひて、とまりて尻うち懸けて居たり。この人は、供に人多くは無くて、昔より見馴れたる小舍人童一人を具して往ぬ。男の見つる程こそかくして念じつれ、門ひき出づるより、いみじく泣きて行くに、この童いみじくあはれに思ひて、このつかふ女をしるべにて、はる〴〵とさして行けば、
「『唯こゝもと。』と仰せられて、人も具せさせ給はで、かく遠くはいかに。」
といふ。山里にて人も歩かねば、いと心細く思ひて泣き行くを、男も、あばれたる家に、唯一人ながめて、いとをかしげなりつる女ざまの、いと戀しく覺ゆれば、人やりならず、「いかに思ひ居つらむ。」と思ひ居たるに、やゝ久しくなり行けば、簀子に、足しもにさし下しながら寄り臥したり。
この女は、いまだ夜中ならぬさきに往きつきぬ。見れば、いと小き家なり。この童、
「いかに、斯かる所にはおはしまさむずる。」
と言ひて、「いと心苦し。」と見居たり。女は、
「はや馬率て參りね。待ち給ふらむ。」
と言へば、
「『何處(いづこ)にかとまらせ給ひぬる。』など仰せ候はば、いかゞ申さむずる。」
と言へば、泣く〳〵、
「斯樣に申せ。」
とて、
いづこにか送りはせしと人問はば心は行かぬなみだ川まで
といふを聽きて、童も泣く〳〵馬に打乘りて、程もなく來著きぬ。
男うちおどろきて見れば、月もやう〳〵山の端近くなりにたり。「怪しく、遲く歸るものかな。遠き所に往(い)きけるにこそ。」と思ふも、いとあはれなれば、
住み馴れし宿を見捨てて行く月の影におほせて戀ふるわざかな
といふにぞ、童ばかり歸りたる。
「いと怪し。など遲くは歸りつるぞ。何處(いづく)なりつる所ぞ。」
と問へば、ありつる歌を語るに、男もいと悲しくてうち泣かれぬ。
「此處にて泣かざりつるは、つれなしを作りけるにこそ。」
と、あはれなれば、
「往きて迎へ返してむ。」
と思ひて、童に言ふやう、
「さまでゆゝしき所へ往くらむとこそ思はざりつれ、いとさる所にては、身もいたづらになりなむ。猶『迎へ返してむ。』とこそ思へ。」
と言へば、
「道すがら小止(をや)みなくなむ泣かせ給へ。あたら御さまを。」
といへば、男、「明けぬさきに。」とて、この童供にて、いと疾く往き著きぬ。實(げ)にいと小さく、あばれたる家なり。見るより悲しくて、打ち叩けば、この女は來著きにしより、更に泣き臥したる程にて、
「誰そ。」
と問はすれば、この男の聲にて、
涙川そことも知らずつらき瀬を行きかへりつゝながれ來にけり
といふを、女、「いと思はずに、似たる聲かな。」とまであさましう覺ゆ。
「開けよ。」
といへば、いと覺えなけれど、開けて入れたれば、臥したる所に寄り來て、泣く〳〵をこたりを言へど、答へをだにせで泣く事限りなし。
「更に聞えやるべくもなし。いと斯かる所ならむとは、思はでこそ出し奉りつれ。かへりては、御心のいとつらく、あさましきなり。萬は長閑に聞えむ。夜の明けぬ前(さき)に。」
とて、掻き抱きて馬にうち乘せて往ぬ。女、いと淺ましく、「いかに思ひなりぬるにか。」と、呆れて往き著きぬ。おろして二人臥しぬ。萬に言ひ慰めて、
「今よりは、更に彼處へ罷らじ。かく思しける。」
とて、又なく思ひて、家に渡さむとせし人には、
「此處なる人の煩ひければ、折惡しかるべし。この程を過して、迎へ奉らむ。」
と言ひ遣りて、唯こゝにのみありければ、父母思ひ歎く。この女は、夢のやうに嬉しと思ひけり。
此の男、いと引切りなりける心にて、
「あからさまに。」
とて、今の人の許に晝間に入り來るを見て、女、
「俄に、殿おはすや。」
といへば、うちとけて居たりける程に、心騷ぎて、
「いづら、何處にぞ。」
と言ひて、櫛の箱を取り寄せて、しろきものをつくると思ひたれば、取り違(たが)へて、掃墨(はいずみ)入りたる疊紙(たゝうがみ)を取り出でて、鏡も見ずうち裝束(さうぞ)きて、女は、
「『そこにて、暫しな入り給ひそ。』といへ。」
とて、是非も知らずさしつくる程に、男、
「いととくも疎み給ふかな。」
とて、簾をかき上げて入りぬれば、疊紙を隱して、おろ〳〵にならして、口うち覆ひて、夕まぐれに、「したてたり。」と思ひて、斑(まだら)におよび形(かた)につけて、目のきろ〳〵としてまたゝき居たり。男見るに、あさましう、珍かに思ひて、「いかにせむ。」と恐ろしければ、近くも寄らで、
「よし、今暫時(しばし)ありて參らむ。」
とて、暫し見るも、むくつけければ往ぬ。
女の父母(ちゝはゝ)、「斯く來たり。」と聞きて來たるに、
「はや出で給ひぬ。」
といへば、いとあさましく、
「名殘なき御心かな。」
とて、姫君の顔を見れば、いとむくつけくなりぬ。怯えて、父母も倒れふしぬ。女(むすめ)、
「など斯くは宣ふぞ。」
といへば、
「その御顔は如何になり給ふぞ。」
ともえ言ひやらず。
「怪しく、など斯くはいふぞ。」
とて、鏡を見るまゝに、斯かれば、我もおびえて、鏡を投げ捨てゝ、
「いかになりたるぞや。いかになりたるぞや。」
とて泣けば、家の内の人もゆすりみちて、
「これをば思ひ疎み給ひぬべき事をのみ、彼處にはし侍るなるに、おはしたれば、御顔の斯く成りにたる。」
とて、陰陽師(おんみやうし)呼び騷ぐほどに、涙の墮ちかゝりたる所の、例の膚(はだ)になりたるを見て、乳母、紙おし揉みて拭(のご)へば、例の膚になりたり。斯かりけるものを、
「いたづらになり給へり。」
とて、騷ぎけるこそ、かへす〴〵をかしけれ。



